昭和四十七年六月三十日
「
御理解第七十二節
「人間を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」
人間を軽う見らないという事は、おかげに直結する事です、いわゆる人間尊重と。
先日もある人が、人から軽う見られたと云うて、それこそ涙が出るように腹が立った「誰からそげん軽う見られたか」「誰々さんからです」と、二人共私が知ってる人なんです、「うんそげん云やあの人は今頃、ちった思い上がってござるごたる」と
本当に自分では気が付かんなりに、自分が思い上がっとる、本当に自分の事は分からんねと云うて話した。本当にあんなおとなしい性格の人が、しかも実意丁寧な感じの人が、あゝたをそんなに軽う見たかと、そらあ今度会うたなら、私から一口云うとこう、ほんに私もそげん云や気が付かんじゃない、今頃時々それを気が付く事がある、だから今度会うたなら、私からも云うとこうと云うた事でした。けれどもね、軽う見られるあんたの方も、悪かつよと私が申しました、丁度そのお届けのあった日が、神の声と聞き、神の姿を見るといったようなあの御理解だったのです。
ですから〇〇さんに、そうだったけれども、本当にあの人の云われる事が、神様の声であったと思や、本当にそうですなあと、こういう事でしたけれども、仲々そんなら、相手を神と見きらないところに、矢張りしこりが残る訳ですね。だから軽う見る方も悪いけれど、矢張り見られる方も悪いのです。ですからこゝのところは本当に、例えば又の御理解にありますように、先生と云われるようになつたり、言わば旦那様と云われるようになりますと、人間はどうしても頭を下げる事を、いわゆる人を軽うミルと云う事です。
実が入れば入るほど屈むのが稲穂でありますように、実が入れば入る程、言わば屈んで通れ、と言ったような御教えもある。
ですから、結局実が無い証拠である、人を軽う見ると云う事は、自分自身が実の無い証拠なんです、同時に例えば、人から軽う見られるといったような場合であっても、本当に軽う見られる筈だと、軽う見た人を神様と観るという見方ですから、もう大変に相手を尊重した見方ですねえ、そして自分が愈へり下っていき、自分自身が愈深まっていく、改まっていく、研いていくという事に精進をする私共時々こゝのところをですねえ、反省してみないと、自分にはそんなものはないと思いよるけれども、言葉使いからしてです、相手を軽う見たりする場合があるんです。いわゆる軽々しゅう扱うと、その人自身も軽々しく扱われる事になるのです。しかもです、それを本当に、人間を軽う見んで済む程しの、大人物にならせて頂いたら、その大人物自身がおかげを受けるのですよ、自分自身が。
もうこゝにハッキリ仰っておられますように、人を軽う見たらおかげはないと、こう云うのです、それかと云うて、先日から頂いておりますように、いわゆる信心を釘付けにしてしまっておる人。
金光教の信心とはこげなもんだ、金光様の信心すりゃ、言葉使いでもこげな言葉使いせにゃならん、態度でもこげな風にせにゃならん、と云うて形だけが出来たと云う人が、ですから心が出来て、例えば実意丁寧なのではないのだから、変な実意丁寧になってしまって、あの人は仲々辞が低い、頭が低い、もう永年お道の信心をした先生やら、人達の姿を見ると、そういう人があります。そしておかげを頂きゝらんでおると云うなら、それは実意丁寧の化物だと、私は云うておる。自分の心が本当に実意丁寧になって、御信心させて頂いておるならです、勿論人を軽う見るだけではない、これは人だけではない、物でも、事柄でも大事にするようになってくる。
本当に、人を軽蔑するという位、いやな感じのものはないですねえ、私はいつだったでしょうか、もう随分前だったですけれども、青年会の会合があっとる時に、定男さんと、石井信司さんがお話をしておるんです、定男さんがあんな風なんですから、誰も相手にしない訳です。
その信司さんが、もう本当に対等のような感じで、話をしておられるのを見てからね、何か信司さんにお礼が云いたいような気が致しました。それは、私が身内だからといったもんじゃなくてね、そういう心がけなんですよ、神様がお礼申したいような。
世の中では、云うなら軽く扱われておる人、云うなら人が軽蔑するような人をです、例えばその私の心に、何とはなしにしっとりとした信心が、頂けておる時には、軽う見られない、矢張りそれを丁重に扱う、だから私は段々それが身についてくるから、神様から又丁重に扱われるようになる、私自信が。
各々自身が、神様におかげを受けると云う事はね、神様に丁重に扱うて頂く、という事なんですよね、私はだからその方に、そん時も申しました、夜の御祈念の後下がりますともう、私の足袋をぬがせて下さる方がある、羽織をとって下さる方がある、袴をたゝんで下さる方がある、もう本当に人に見られておってから、恥ずかしいごたる、云うなら感じです。
まあ本当に合楽の先生ちや威張っちゃる、足袋でんなんでん信者にぬがせる、と、私は思うんですけれども、これは矢張り神様に、丁重に扱うて頂いておるんだと思うのです、同時に私の心の中にはそういう御用をして頂く人も、又その事を通しておかげを頂いてもらわんならん、という 云うならお道の教師的精進というものが、そこに出てくる訳です。
昨日麦生の人で、私の知った人なんですけれども、こゝの入り口の珊瑚樹、あれは大変珍しいものだそうですね、そして大変高いんだそうです、それであれを、もう積んだ後でしたけれども、少しでんえゝからと云うて、態々私の知った人を通して、相談に見えとったんです、それでこゝの植木は、高山さんがあゝして責任持ってやっとりますから、高山さんがよかちゅうならよかですよ、と云うとったら、態々稲数迄尋ねげに行って、「よかちゅう事でございますから」と、「そんなら上げてもいゝですよ」と云うて、あげとりましたら、昨日態々お礼に出て見えた。
お菓子箱どん持って、それに寸志と、お金を持ってね、見えて、それで「お菓子の方だけ頂いて、お金の方は返しときましょうね」と家内が云いますけんね、「そげなこつがあるもんか、折角持ってきたなら頂いとかじゃこて、うちの場合はみんなが、例えば勝手、上がって下さいと云うて持ってきても、お供えぞ」と私が申しました。例えばお礼に金一封を、それは神様のものを上げたのじゃないか、金一封と云うて上げたのだから、向うからお礼として持ってきたのじゃから、こゝへお供えとしては持ってこらじゃったけれどもその金は結局、うちのお下がりと一緒になって使われる。だから、御結界にちゃんとお供えさせて頂いて、そのかわり御神米を一体上げると、こう私は申しました。
これは矢張り私共がいつも、人が助からんならんと云う事をいつも念頭に、これは私の行き方から言ったら、ほんこて、お菓子もいらなければ、お金もいらんです、まして知っておる人ですから、けれどもその人も又、おかげを受けなければならんと思うから、お菓子ももろうとけ、金一封の方ももろうとけ、そしてそんなら、神様にお供えさせて頂きましたと云うて、御神米を上げろと申しましたけれどもね。
私はそういう行き方こそが、本当の意味での尊重だと思うですよねえ、おかげ頂いてもらわんならん、相手に、ですから私も矢張りおかげを頂く。
親先生が下がられたと云うて、とびつくようにしてそんなら、私の身の回りの奉仕を、皆さんが色々して下さる。それは本当に、私は御本部参拝の汽車の中で、もう本当遠慮したいごとある、何故って他所の先生方も見えるのに、ではなくても、大坪さんは威張っとる、と云う評判があっとる位ですから、もうそれは本当にそうですけれども、一生懸命奉仕をして下さる方は、おかげを受けなければならんから、笑われても、恥ずかしかってもそう、足を投げ出しとるだけなのです、云うならば。
「今日はお父さん、あなたは三回足をもんでもらいよんなさるですよ」と家内が云いますもん、「そればってん各々別々じゃないか」と私が、そらあ、久富さんが二時間位、久富先生が二時間位、又文男さんが夜中二時間位、もうあゝた、てんでもみちかけえしてしもうてから、三辺ももんでもろうてと、「おうそうたい」と、そればってんもむ者は別々違うもんじゃけん、各々がおかげ頂かじゃんとじゃけん、と申しましたような事でございますけれどもね、もうよかばい、さっきからもうじもろうたけんでと、ちったこっちはきつかばってん、もうじもらいよる。
私はこれは決して、人を軽う見とるとじゃない、本当に尊重するという事は、おかげ頂いてもらわんならんから、そうさせてもらいよるだけの事です、本当に、そんならそういうような心の状態が、どういうような心の状態から、又は私の信心から出てくるかと云う事なんです。私はこゝ十日間位です、毎朝眼覚ましのおかげ頂いてひとつ楽しみが出来た。
と云うのはね、洗顔をする時に、洗顔をしてから、タオルで顔を拭いて鏡を見る楽しさがね、私はこれは不思議です、最近もう自分の顔を洗わせて頂いて、拭かせて頂いて、前にある鏡に映る自分の姿に惚れぼれとして、私は又私に会えるちゅう感じなんですねえ。もうそらあ眼のしょんだれたとこにきの、具合のよさと云うものは自分で惚れぼれする、これは私は本当にそうです、こゝ十日余り本当にそうです。
そんなら私が林長次郎のごと、よか顔しとる訳ではないですけれどもね、まあ云うならマンガに近い顔です。それがね、本当に美しく見えるんです、だから私は、朝早く起きさせて頂く事に、ひとつの楽しみが出来てきたような感じがするのです。
皆さんどうでしょうか、本当に朝起きて、洗顔して鏡見て、自分の姿形にね、云うなら自分の人相にですね、惚れぼれとして楽しいような、有難い自分に会えれると云うことなんです、と云う事は、これは本当に楽しいです。
そん為には矢張り、休ませて頂く時から、昨日の話じゃないですけれども、昨日家内にもその事を申しました。入れ歯とってから寝とったもんじゃけん、歯はくいしばったごとして、そういう風に見える訳です。だからちゃあんと入れ歯どん入れちから、そしてやすませて頂く時に神様にお願いして、心の状態が有難あゝい心の状態で、ちっとだくにあけとる位ならよかばってん、くいしばっとるとはいかんと、昨日私が云いましたけん、こらやっぱお願いして休まにゃいかんですねと、昨日、家内が申しました。
だからやっぱお願いして休ませてもらう、本当にいつ私どんが、つめとうなっとるか分らんのですからね、そん時に歯をくいしばって死んどったというのじゃ、やっぱいかんです。そこでです、私は今日は、人間を軽う見な、軽う見たらおかげはなし、と云う事は、自分の例えば顔にね、朝洗顔する時に、会う事が楽しい位な顔ようにならせて頂く為の、信心が必要だという事です。
云うなら自分で自分の心が拝みたい、というような心の状態で、例えば休ませて頂くならです、有難い有難いと云うて休ませて頂くならです、朝起きた時にはやっぱり有難い人相が、ちゃんと鏡に映るごとなっとる、お互いが、だから人を軽う見ると云う事は、教えられたけん、そんならこうやっていつも頭下げちから、丁重にするという事ではなくてです、自分自身が好きになる、自分自身が拝めれる、自分自身を尊重しなければおられない程しのです、私は信心が必要だという事になるのです。
そこから例えば人を軽う見るという事の無いおかげ、結局自分自身をもっともっと尊重しなければいけない、という事なんです、もうあたしどんつまらんけん、あたしどんと云うてから云う人があるけれどもね、それは成程、社交辞令としてはです、私じゃつまらんですけれども、云うなら自分自身の、神様の氏子としての自覚ですいわゆる、そしてその自分の、云うならば心の神様が段々、自分が自分で眺めて、有難い事だと思わせて頂けれる状態が、段々続いて参りますとです、自分で自分の顔に面会をする事が楽しゅうなってくる、そういう事が私は、人を軽う見なと云う信心だと思うです。自分自身の、云うなら心が拝めれる時にです、相手を拝まないはずが無い、しかもこれは私共が願ってやまないおかげにね、直結してる心の状態なんです。
人を軽う見るとおかげはなしと仰るのですから、どうでも相手を神の氏子として、相手を尊重して、見せて頂き、扱わして頂く私に心からならせて頂く時に、だからおかげがあると云うことが断言出来るのじゃないでしょうか、そういう心の状態になったらおかげがあるのである。
だからどうでも私共はです、人を軽う見らんで済むところの私達にならせて頂く精進を、本気でさせて頂かねばならんと云うことになります。
例えば私達が世の中からは、あんまり大事にされない、云うなら世のふきだまり的なところに、うごめくようにしてある人達、矢張り人間なんです、そういう人達にもです、私共が本当に神様の氏子として、それを扱えれるようになる時に、私がその時信司さんに、お礼を云いたいような心が起きたように、神様がそれこそ、お礼を云うて下さる程しの事になってくるとするなら、これは大変な事なんですよね。
そこにはね、例えばかてのかすといったような事もなくなってくる、人から軽う見られる事も無くなってくる、軽う見られると云う事は結局、私共が軽う見られなければならない、その内容が有る事を気付かせてもらってです、軽う見る方も軽う見られる方も、おかげはなしと云う事になってきますから、自分が軽う見られたら、そこにかえって罪を作る事にもなってくる。
自分を軽う見る、軽蔑する人があるとするとです、その軽蔑した人は、もうおかげはなしになってくる、ですからどうでも私が丁重に扱われ、尊重される私にならせて頂く、人から大事にされる、そうすると大事にした人もおかげがあるのであり、尊重されゝば又、私自信もおかげを頂くという事になりましょうが、どうぞひとつ今夜やすまれる時にですね、だから、やすむ時だけじゃいかんけん、やっぱ一日、信心の修行に精進しておると、本日もおかげを頂いてよかった、あんな事もあった、こんな事もあった、あそこはお礼をまちっと申さねばならなかった、こゝはお詫びをしなければならなかった、と例えば大晦日のような心もちで休ませて頂く、その寝顔には必ずですね、それこそ寝ながらにこやかな顔ようで、休ませて頂く事が出来ると思うです。そういう顔を洗顔の時、鏡の前に持って行くもんですから、その顔に会わしてもらうのが楽しみと云う位なです、ひとつ信心を身につけていったら、人間を軽う見な、軽う見たらおかげはなしと云う事を、実行しておる事になるのです。
まず自分自身を大事にすると云う事、そこから人を大事にさせてもらわなければおられない心も又、育ってくる訳で有ります、只軽う見なと仰るから、今日は誰でん彼でん頭を下げようと云うような事ではね、それは頭の低いのはいゝ事はいゝです、けれどもそれはおかげにはつながらないです、実意丁寧の化物ではいけないのです心が矢張り実意丁寧になっていかなければならんのですからね。
どうぞ